マン盆栽の理由(わけ)

平成から令和へ、有難いことにその瞬間を清々しく、「苔」とともに迎えられてるなって感じています。

何とも表現しようの無い「この気持ち」を、仲間たちと分かち合いたい。末田はそんなふうに考え、今回のコーヒーイベントを企画しました。

平成の時代に交わしていた約束を、信頼できる仲間たちとこのタイミングで実現したいって、そんな風にもとても強く思いました。

平成の間のみんなとの約束は、ふたつありました。

ひとつ目は陶芸家の森永さんとの約束。

平成30年にカフェギャラリーで開催した彼の豆皿個展。次回の展示は盆栽鉢を企画しようと話していました。

亡き父の影響でホンモノの陶片が幼児期からの遊び道具だった末田は、焼き物を観る目だけは本当に確かです。

津山の森永さんは、世界へ羽ばたく茶碗作家へ、令和という時代の中で成長していくでしょう。

漢方薬剤師末田と盆栽鉢作家森永さんとの出会いは平成20年の城西祭りだった様におぼえています。自分の経営する薬局を末田がはじめたばかりの頃でした。シンプルで飽きのこないデザイン、こんな粋な盆栽鉢を焼ける人が津山に居たんだ、そんな感じの驚きの出会いでした。

イベント開催ひとつ目の理由、森永さんと出会った時からの約束。

平成20年の田町山下は今とは雰囲気が全然ちがっていて、楽しそうな若い人のお店って数えるくらいしかありませんでした。

ふたつ目は焙煎家竹内さんとの約束。

田町山下に新しい文化の風が吹きはじめたのは、レインボーの竹内さんが京都から津山へ帰ってきた平成24年でした。平成20年の開局時から竹内さんのおばあさんもお母さんも末田薬局を利用してくださっていたので、親戚の甥っ子が津山へ帰ってくる様な気持ちで彼のコーヒー食堂の開店を待っていた様に記憶しています。

末田の3人の子供たちも竹内さんに良くなつき、何か相談事があればレインボーコーヒーで話を聞いてもらってた様でした。お店は通学路にあったので夕方の小学校からの帰り道、彼らは毎日のように声をかけてもらっていました。

末田も毎日のようにレインボーへかよい、仕事の合間のホッとする空間を楽しんでいました。

長男の桂大は竹内さんの影響を大きく受け、真っ直ぐに尚且つユニークに成長していってくれました。

影響を受けたのは長男の桂大だけでなく、末田自身も変わっていったのを今こうして振り返っています。

町の人々が、子どもたちを育ててくれるということ。美しい日本の原風景、それを実感する時間の積み重ねが、岡山県北の津山には本当にあります。

よろこびが生活となり、生活をよろこびとする。

理想や目標を深く考える、そして実際に行動にうつしてみる。

おいしくコーヒーを飲めるよう自社にカフェを作り、仕事の仲間たちへ竹内さんから焙煎などのレクチャーをしてもらいました。

生活の価値を大切にすること。

学びの時間と空間。

身の回りのコミュニティの居心地が、少しづつ良くなっていきました。

B’z稲葉さんの地元凱旋公演を記念して、津山がおもてなしで盛り上がった平成28年7月22日。末田は新地通り商店街で、エスプレッソスタンドのマスターになりきりました。ウイークエンドシャッフルと名付けられたイベントのワッペンを付け、大勢の方々と協力して津山を発信することが目的でした。

仕事は創意と工夫、できるだけ芸術的であれと思います。

翌年にはイベントの行われる田町山下界隈が歩行者天国に。

娘が吹奏楽部の部長をつとめていたので、鶴山中学校へ演奏をたのみました。

銀座で毎年行われる銀茶会を真似て、野点を振舞いました。

むかしから最高の賢者たちは、質素で清々しい生活を送っています。

文化都市津山の歴史は、脈々と受け継がれています。

竹内さんのコーヒーと森永さんの器は、薬局スタッフの結婚披露パーティーでも大活躍してくださいました。

暮らしはいつも、コーヒーとともにありました。

ここからの生活に余白を残していたいと思います。

竹内さんのコーヒーをこの先も飲み続けたいのです。

イベント開催ふたつ目の理由、竹内さんと出会った時からの約束。

神棚の水を変え、手をあわせる。

お城にのぼる朝日を拝む。

みっつ目があるとすれば、苔と歩いていたいという理由。

小さい石が大きな岩になりさらに苔の生すまでという国歌の意味を深く考えてみたい。

末田がマン盆栽とコーヒー展を企画したのは、そういった理由たちがあるからなのです。

ようこそ津山へ。

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