薬学と仏教

小1の次男が「一休さん」一泊二日の修行から帰ってきました。

末田は根っからの仏教好きです。実母は76歳で認知症の診断された今も、毎週末田家の墓参りを欠かしたことのない人です。骨董好きな亡き実父のアトリエには、古い仏像が至る所に飾ってありました。
出雲大社教(神社としては珍しく内務省の承認を受けている教団)の出雲大社へ、家族そろって毎朝お詣りは欠かさず行っていますが、末田芳裕は根っからの仏教徒です。

仏教をもっともっと勉強し、薬剤師という一生の仕事に生かそうと、永平寺へ雲水として1週間だけの参禅経験があります。お寺に行く前に妻が切迫流産で産婦人科へ入院、生き方と家族と大切なのはどちらなのか?30代は本当に自分との葛藤の日々でした。長女が産まれる15年以上前のことです。

平成20年の薬局を開設した日「薬師如来」に守ってもらえるよう、この仏像を従姉妹の経営する仏具店で購入しました。以来、苦しい時も悲しい時も、ずっと一緒に一隅を照らす経営を見守ってくれてます。稲荷さん詣で商売繁盛を祈念することは、僕たちのカンパニーにありません。薬屋が流行ることは、社会不安が存在するということ。薬屋が繁盛することは、良くないことだと思います。お薬師さんにすがり病気に苦しむ人を救い出し、地域の未病を見守る存在になることが、起業以来ずっと変わらない末田薬局の夢です。

仏教に関するいろんな資料を、毎週のように取り寄せていた時期があります。薬学と仏教にとても深い関係性があると考え、仕事を深めることが目標でした。

生きるとはどういうことをいうのか?
僕たちはなんのために生きているのか?

なぜ病気を治す必要があるのか?

死はどうして良くないことなのか?

未だ答えは見つかっていません。仏教の中にその答えはあるのか?薬学という哲学の中に、その答えはあるのか?医学は敵なのか本当に味方なのか?

東大薬学部の池谷裕二さんが、こんなことを言っています。

「洗面台の栓を抜いたら、渦が自然にできる。その渦を手でかき混ぜて壊すと、水がなかなか洗面台から流れ落ちて行かない。渦がある方が水が素早く流れて、早く消えてなくなるのだ。渦は水が低いところに流れるのを助けている。渦という秩序は、結局、水という秩序がはやく消えるように助けている。ちいさな秩序を作ることで、より速く秩序が消える。秩序を消すために、ちいさな秩序を作る。このことを考えると、自分が遠くにかき消される様な気になる。自分自身という存在は渦そのもので、宇宙の中にぽつんと浮かんだ秩序だ。あなたという秩序は、宇宙の原則に逆らう存在などではない。あなたというちっぽけな秩序によって、宇宙全体から秩序が消えるのを早めている。あなたが生きることで、宇宙ができるだけはやく老化できるように、手助けしている。それが生きるということである。」

生きることも正しい。

死ぬことも正しい。

勇気をもち、充実した死のために、精一杯の力で生きてみようと思います。

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