茶の湯への誘い

桃山期の陶片が、末田幼児期の玩具だった。

茶道のたしなみは無かったが、美味しいお茶を点て、家に集まる友人をもてなしていた実父。正統派でない茶の湯文化の環境下、田舎の母屋廊下から続く炉のある四畳半の茶室と茶庭、そしてレコードと油絵の並ぶアトリエがあった。

剣道や弓道に明け暮れた青年期、苔の水やりと庭の手入れは末田の得意な手伝いだった。

東洋西洋問わず芸術に影響を受け続けた青年は、博多で大学を卒業。倉敷で営業職を経験し、本作りのため故郷津山へ帰ってくる。

若者には退屈な津山で、景道片山流という床の間の飾りつけタオニズムとの出会いをきっかけに、30代は本格的に茶道を学び直すことになった。

美しくとても優しい先生の門下となって数年、残念なことに女性問題をおこし裏千家からはその後門外漢となってしまう。

同じ時期に実父を亡くし、もろもろ苦しみから5年が経った頃、自宅件薬膳カフェの建設を、末田は家族や周りの反対を押し切ってはじめる。当時仕事の関係で出会った薮内流茶道家で美術家の谷先生の影響で、倉庫の予定だった場所を3畳小間の茶室へと変更し、楓を植える予定の中庭を北山杉の苔庭につくり変えてしまうワガママぶりだった。

新卒の薬剤師や地元大学の新卒事務職を受け入れ、自社ビルの建築に着手、次々と新規顧客を獲得し、順風満帆のように見える末田薬局。しかしながら末田のワンマン経営から、退職者が後を絶たず経営はいつまでも創業期のままでしかなかった。

美術家の谷先生と一緒につくった手作りの離れ茶室も、完成して丸5年使うことはなかった。ある時その場所が、突然動きをはじめる。週一回の早朝茶道教室が、裏千家男性の好意で奇跡的にはじまったのだ。

京都岩倉に住む西山先生との再開は、末田の茶道元年となった。毎週日曜日700キロを移動し、月曜日の午前中に勤務する病院へと通う70代のダンディーな男性医師。月曜日の朝食前の1時間、午前6時からの二人だけの稽古が末田の内面を変えていった。

生まれ育った津山に誇りをもち、仏教の教えや武士道(地元国士)に自身の倫理観を重ねてきた50年の人生。淡々と繰り返し、無心で続ける茶の湯の作法。何度も辞めようと考えて、それでも先生に言われるまま続けてきた2年間。

末田が大切にしている理念とは、いったい何をいうのだろうか。

やりたいことの本質を、じっと見極めて生きてきた。全ての経営者に、本当の茶の湯を体験してもらいたいと切に願う。人生の操縦桿を離してはいけない。諦めるのは、命が終わる時でいい。独立国家のつくりかた、末田はそれを茶の湯に教わった。

あなたに一服差し上げたく候。

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